kodebuyaの日記

労働問題が最近多くなった食レポブログです。

脱原発と「原発は高コスト」と橋下徹と

昨日ネットで知り合った友人と、代々木公園でおこなわれた脱原発10万人集会に行った7.16(月/祝)「さようなら原発10万人集会」@代々木公園 - kodebuyaの日記
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参加者数は主催者発表と警察調べでは隔たりがあるが、((主催者発表17万人、警察リーク情報7万人))少なくとも(!!)数万人規模のもので、成功と言ってもおかしくはないと思う。

この手のイベントではゲストスピーカーがスピーチをするのだけれども、その中の一人が「原発はコストが高い。これを理解している財界人は増えつつある」といった趣旨の発言をした。その時はそうなのか、と思っただけだったのだが、イベントの帰りにご一緒した方から「でも脱原発新自由主義は親和性が高いからなぁ」という話があった。
その話をした方と別れた後、別の方とこの件を話したのだが、この発言の趣旨は、先の東京電力の事故を見ても解るように、一度事故が起これば一私企業では事故処理も損害賠償など不可能な程の損害を生じさせるのが原発という技術であって、このような技術は国策としてしか推進する事が不可能な訳であり、全てを市場に委ねようとする新自由主義の立場からは原発は無くしてしまう方が好ましいということだ。ましてや、日本の場合は電力寡占の条件としての原発という一面もあることから、電力の自由化を求める立場としては原発がないに越したことはないということなのだろうということになった。
私自身は原発は少数の犠牲の下、多数が利益を享受するものだと考えていたこともあり、上記のような考えもできるという発想がなかった。

ちなみに外国の例ではかってのニュージーランドが脱原発新自由主義の政策を行っていた*1


つまり昨日のイベントは所謂リベラルと新自由主義が同床異夢の状態だったと評価できるということだ。

もちろん、脱原発という一点で共闘すべしという考えもあるだろう。
しかし少数の多数の抑圧を認めない立場と、格差を拡大し固定しようとする立場では寄って立つ立場が全く別なのだ。
もちろん、彼らの脱原発は悪い脱原発。こちらは良い脱原発だとして、足を引っ張るということはしないとしても、積極的に応援はしないという立場が本来だと思う。

ここでようやく、テーマにした橋下徹のことだが、彼が率いる維新の怪は、小沢一郎が立ち上げた新党「国民の生活が第一」にたいしでTPPの参加が協力への条件と言った程に新自由主義に親和的な政党だが、橋下は改めて脱原発を表明しているのだが、何ら不思議でなく、新自由主義の立ち位置からすればむしろ首尾一貫しているとさえ評価できるものなのだ。

だから、卑しくもリベラルや超左翼を標榜する人間が橋下を「脱原発橋本市長を応援しよう」と脱原発一点でその新自由主義的性格を無視して支持することはあまりに思慮が足りないと言われてもしかたがないと思う今日この頃だ。

橋下を語るには君が代起立条例や文楽の補助金削減やWTCの無駄遣いも含めて語るべきであって、脱原発が免罪符にはなり得ないというべきだろう。橋下は自らの信念に従って行動している。ベーシック・インカムを言い出したこともあるが、新自由主義者ベーシック・インカムの可能性を言及している以上、これだって左派リベラルの専売特許ではあり得ないのだ。橋下は新自由主義の観点からベーシック・インカムを語っている。そう考えれば橋下の言動は極めて一貫しているとさえ言えるのだ。
つまり本多勝一氏の言い方ではないが「橋下にも良い施策があるから橋下を認めよう」という言い方は出来ないということだ。

*1:http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1243.htmlのぽむさんの発言「脱原発だって、ニュージーランドは脱原発国家として有名ですが、他方、80年末~90年代初頭にかけて過激な新自由主義政策を取り入れた国でもあります。そして、脱原発を含む非核法はその新自由主義政策を施行した政権のときに成立しているのです。脱原発は左翼の専売特許なんかじゃないです。」