kodebuyaの日記

労働問題が最近多くなった食レポブログです。

新自由主義とファシズム

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111224/1324692134
よりメモ。

新自由主義が一種の〈原理主義〉だとすると、自らを純化しようとするだけでなく、自らの〈原理〉を社会の他のセクター、さらには社会全体に輸出しようとする傾向があるといえる。企業が市場において市場主義的に振る舞うのは理の当然であって、そうしなければ阿呆である。しかし、新自由主義者は〈市場原理〉は経済だけでなく、政治や教育、さらにはプライヴェートな人間関係にまで貫徹させようとする。別の側面からいうと、新自由主義においては企業組織をモデルとして社会が想像されることになる。また、社会行為は企業経営をモデルとして。(これは新自由主義以前の話だけれど)既に政治は経済に呑み込まれており*1、政治家の理想はワンマン経営者、特にブラック企業の経営者ということになってしまったらしい*2。そういうことを念頭におけば、上に引いたことどもには殆ど不思議はなくなることになる。「排他的な一元主義」というのはそういうことだろう。「鋭角ピラミッド型の階級社会」というのも企業というのはそもそもが社長→重役→部長→課長→係長→ヒラという縦型のヒエラルキー組織である。それが全社会化されるということだろう。

デヴィッド・ハーヴェイ教授は、新自由主義とは「富裕層が権力を回復するためのプロセス」と位置づける。
これって実際は民主主義の拒否だったりする。
昔、ビートたけしがテレビ番組で「自分は人の何倍も税金を払っているのだから、投票権を倍寄こせ」といってそれなりの賛同があったことを覚えているが、民主主義って元来どんな地位の人間でも一人一票であるというのが原則であって、暴言以外の何物でもなかったと思うのだがシャレ・ギャグということで本気にする人はいなかった。
新自由主義も上記引用にあるとおり、全てを市場原理にゆだねるという点において、民主主義自体は否定するものではないのだけれども、効果的に富を収奪するためには民主主義の衣を纏った強権が必要になる。新自由主義の言い分では「より効率的なところに富を集中させる」というのだけれども、これも単に少数者切り捨てという言い方を市場主義原理で言い換えたに過ぎない。
しかしこんなことは普通通らないので(切り捨てられる側の反発が酷いし)あって、これを[政治的に」支援し「富裕層が権力を回復する」にしようというのが新自由主義なので、必然的に強権的にならざるを得ないし、少数者ではない人々にしてみれば(今のところ)自分のことではないので「そんなことに時間をかけるくらいなら政治の強力なリーダーシップで決着をつけろと思う。
また、こんなことでは社会の連帯感は必然的に失われてしまうのでこれを束ねるために、排他的・愛国的な政策を押しつけようとしたり、他国を強く非難することで目をそらせようとする。サッチャー政権下で起きたフォークランド紛争は、その政権の新自由主義とは無関係ではないと思うし、我が国でも安倍政権下での北朝鮮対策はまさにそうだったといえるだろう。
だから新自由主義ってネオ「リベラリズム」というのだけれども、その実際は「独裁」と親和性が高いといえるのではないかと思う。

ここでようやく本題に入るのだけれども、ゆりひななさんよりhttp://d.hatena.ne.jp/kodebuya1968/20111205/1323084184#cにてコメントをいただき、
軒づけ日記 橋下人形と新自由主義の大実験 その1
軒づけ日記 橋下人形と新自由主義の大実験 その2
軒づけ日記 橋下人形と新自由主義の大実験 その3
軒づけ日記 橋下人形と新自由主義の大実験 その4
の一連の記事を拝見しました。
橋下が財界の操り人形であるというご意見は全くその通りだと思います。
しかし橋下自身も自分自身が努力して得たと思っている今の地位を確固たるものにするためには財界の援助の元強権を発揮するしかないわけで、その手段として独裁ということなんだと思います。
だから橋下を批判するには、その独裁的な強権性と、それを支える新自由主義を批判しなければいけないのだと思っています。

って書いていたら、「独裁者」と「新自由主義」は対立概念ではない(「ゆりひなな」さんのコメントへのご返事) - kojitakenの日記がすでにこれについては指摘していましたね。
真似した感満載で恥ずかしい限りです。